|
オールバニ郡(、 )は、アメリカ合衆国ニューヨーク州の中央部東に位置する郡である。2010年国勢調査での人口は304,204人であり、2000年の294,565人から3.7%増加した〔Quickfacts.census.gov - Albany County - accessed 2011-12-06.〕。郡庁所在地は州都でもあるオールバニ市(人口97,856人〔Quickfacts.census.gov - Albany, New York - accessed 2011-12-06.〕)であり、同郡で人口最大の都市でもある。郡名はヨークおよびオールバニ公から採られており、後のジェームズ2世(スコットランドではジェームズ7世)のことである。1683年の設立当初は広大な無制限に近い領域があったが、1883年3月3日には530平方マイル (1,400 km2) まで小さくなっていた。 オールバニ郡はオールバニ・スケネクタディ・トロイ大都市圏に属している。 == 歴史 == === 植民地時代 === オールバニ郡は、ニューヨーク植民地時代の1683年11月1日、植民地総督のトマス・ダンガンによって設立され、後の1691年10月1日に確認された。郡を創設した法はその領域を曖昧に規定しており、「オールバニの町、レンセリアウィック植民地、スカネクテダなど全ての村、地区、キリスト教徒植民地を含み、ハドソン川東岸のローレフのクリークから、および西岸のソーヤーのクリーク(ソーガティーズ)からサラグトーガまでを含む」とされていた。1691年に行われた確認でも同様だったが、オールバニの町を省き、「レンセリアウィック植民地」の代わりに「レンセリアウィックの荘園」を入れ、「サラグトーガまで」の代わりに「サラグトーガの外れまで」としていた。 1717年にダッチェス郡からリビングストン荘園がオールバニ郡に付設された〔。オールバニ郡の領域は様々な州法で土地を追加したり、あるいは新郡の設立で領域を減じたりしてより具体的に規定されていった。1772年、トライアン郡とシャーロット郡の設立によって、オールバニ郡の領域が確定し、現在のオールバニ郡、コロンビア郡、レンセリア郡、サラトガ郡、スケネクタディ郡の全体、またグリーン郡とワシントン郡の大部分、さらに領有紛争のあった現在のバーモント州南西隅を含むものになった。 ニューアムステルダム総督のピーター・ストイフェサントにより、この大きな郡でオールバニ市がベバーウィック村(オランダ語のドープ)として初の自治体となった〔。ストイフェサントはオールバニに最初の庁舎も設立した。1686年、ダンガン総督のダンガン憲章によりオールバニは市に指定された〔。1684年にはスケネクタディいくらかの自治権を与えられ、1765年にはボロになった〔。レンセリアズウィック荘園は1772年に郡内の地区として創設され、その後の1779年にはハドソン川の両岸に2つの地区に分けられた。その西地区には現在のオールバニ郡が含まれたが、当時のオールバニ市域は例外だった。レンセリアウィック荘園は現在のオールバニ郡域で唯一の地区だったが、当時のオールバニ郡では唯一ではなかった。1761年にはピッツタウン、1764年にはデュアンズバーグがタウンシップとして設立されていた。しかし、1772年に地区が作られたとき、これらタウンシップは新しい地区となり、ピッツタウンはスカティコーク地区に、デュアンズバーグはデュアンズバーグとスカハリーの統合地区になった〔。スケネクタディも1772年にボロから地区になった。1772年に設立されたその他の地区として、フーシック、コックスサッキー、ケンブリッジ、サラトガ、ハーフムーン、キンダーフック、キングス、クレイブラック、キャッツキル、リビングストン荘園があった。 1697年の国勢調査でオールバニ郡には1,452人が居住し、その2年後、ウィリアム王戦争が始まったときは2,016人になっていた。この戦争が終わったときは、1,482人に減少していたが、1703年には2,273人にまで回復していた。1723年には6,501人、1731年には8,573人となり、同年のニューヨーク市人口よりは僅かに少ない程度だった。1737年、オールバニ郡人口はニューヨーク郡人口を17人だけ上回った。1774年、郡人口は42,706人となり、ニューヨーク植民地では最大だった。1790年に行われたアメリカ合衆国最初の国勢調査では75,921人となり、この時も州内最大だった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「オールバニ郡 (ニューヨーク州)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|